先日、平日に海老名市役所に行く用事があったので、地下の売店で
「海老名の庚申塔」という資料本(400円)を買った。

内容は充実した解説文(庚申縁起や講へのインタビュー記事等)
塔の一覧表(地区別・場所別・年代別)
庚申塔の場所がプロットされた地図、一塔一葉で写真付きで紹介されており
碑文についても細かく紹介されている。
価格の割には丁寧に創られた資料と思う。
地図は見開き2ページにわたる3分割なので、一瞥して
全体を掴むという訳にはいかないので、Google Mapに手書きで
見当つけた場所をプロットしたものを用意した。

海老名市内には庚申塔だけで76基確認されたそうである。(平成8年当時)
先ずは、端っこからつぶしていこうと海老名市の北東の角から始めた。
よって、#53,54からである。

住所は長ヲサ1077となっているが、いまの住所は柏ヶ谷1077となり、
この石材屋さんの道路際周辺にある筈であり、近辺探してみたが
享保五年の六臂合掌青面金剛像と万延元年の文字庚申塔
がどうしても見付からない。
一番最初から空振りでした。石材屋さんに聞いてみようと思ったが
お休みらしく、人のいる気配がなかったのであきらめて次へ進んだ。
次に目指したのは#57、相模大塚の駅の反対側。

左は馬頭観世音、右が目指す庚申塔
資料によると、打切角柱、H50×W21×D18全高61cm、長ヲサ996、風化著しく
正面、左右の三面に猿がいるとあるが、当時より更に風化が進んでおり
猿も判別難しく、碑文に至ってはほとんど読めない。
誰かがお札を置いていた。場所は柏ヶ谷自治会館の前。
次は#49に向かう。

これも、更にひどい状態であった。
真中のものがそうであるようだが、比較的交通量のある道路際に
廃材のように並べられており、風化と破壊が進んでいる。
資料によると、起舟形光背の地蔵立像、H62×W31全高62cm
造立は寛保元(1741)年十一月吉日、同行八人、主尊が地蔵菩薩であるものは
市内ではこの一基だけとあるが、何ともひどい状態である。
左端の丸っこいのが台座で大きく三片に割れている。
場所は、上今泉6-39-27とある。
#50に向かう。

一度は通り過ぎてしまった、道路を歩いていたのでは全く見えない
写真のような小高い所にあった。石段を何段か登って初めて見える。

写真のように下1/3程が剥離して、いるはずの三猿が脱落している。
資料によると、笠付角柱中区、H91×W30×D27全高116cm
碑文は正面に、奉造立庚申供養□□ □現世安穏後
右側に、延享三丙寅(1746)年 加藤惣左フ (他2名)
左面に、九月十二日(同じく加藤姓3名)
ウ~ム平成8年からだと17年の歳月が経過している訳だが、このままでは
後20年もしない内に殆んどの塔が、ただの石塊となってしまいそうですね!
残念です!
気を取り直して#47,48に向かう。

資料によると、この常泉院の墓地にある無縁仏エリアにあるという。

ここなのか?
立錐の余地なく無縁仏が置かれており、全く分からない。
資料写真の笠の形から見当を付けると、後ろの方にそれらしいのがあった。


ほとんど見えないので断言はできないが、笠の形とわずかに読める碑文
からすると上の写真2枚がそうであろう。
上が#48、下が#47と思われるが、無縁仏に埋まって見えないとは…
資料内容を引用する。
#48;唐破風付角柱、H60×W25×D19全高91 青面金剛像 三面に三猿
右側は、申庚供養 相刕高座郡 上今泉村
左側は、享保元(1716)年丙申十一月廿八日
#47;唐破風付角柱、H75×W25×D15全高92 青面金剛像 三猿
右側は、旹(本当は山の下に土その下に日でトキと読むらしい)
元禄十三庚辰(1700)天 仲□(甘の下に友のような文字)念八日
※仲□(甘の下に友のような文字)で陰暦の五月を表すと資料にある。
※念は二十のことと資料にある。
※つまり、五月二十八日となる。
左側は、奉請庚申塔 願主今泉村永野二人 市川半衛門
星谷村田邊氏六人
次に向かう前に昼食とする。
予め調べておいた蕎麦屋から一番近そうなそば久さんに向かう。
帰りは海老名駅まで歩くついでに2箇所ほど見て歩く。
資料によると、板碑型、H108×W43全高118cmの文字塔
碑文は、寛文六季 夫神灵(霊?)必有感□□□同心
ウン(梵字) 一揆之善男庚申観□結願□視(竹冠に咸)
聴(竹冠に咸)言葉(竹冠に咸)者発願益欲衛二世之希望而己
午丙三月十六日 三猿 11人の氏名 国分村 柳田
場所;国分北2-6尼寺金堂跡

#2;笠付角柱中区 H87×W24×D20全高107cmの文字塔
正面は、アーク(梵字)為庚申供養也 講中六人 三猿
右側は、アーク 享保五庚子(1720)年
左側は、アーク 十一月吉日
庚申堂の隣

#3;笠付角柱中区 H87×W25×D15全高106cmの文字塔
正面は、ウン(梵字)庚申供養 六人 三猿
右側は、宝暦十庚辰(1760)天 金子源七 他2名
左側は、九月吉日 金子武衛門 他2名
庚申堂の隣

#10;山状角柱 H67×W30×D27全高67cmの文字塔
正面は、庚申塔
右側は、東 江戸 南 藤沢(その他判読できない文字あり)道
左側は、西 大山 あつ木 道
裏側は、北 八王子 ほし野や 道
嘉永三庚戌(1850)年末□(火へんに禾へん秋の異字とある)
国分南1-19辻十字路
この横に#11の三猿の陽刻された台座だけがある筈だが見つからず。
資料には現在温故館に。とあるので温故館に保管されているのかも?

#4;現相模国分寺の鐘楼のような所にあった。国分南1-25
舟形光背 H70×W35全高79の六臂合掌青面金剛像 邪鬼
天保三癸亥(1683)年 三月吉日
資料の写真と見比べると台座の自然石が変わっているようだ。

#8;山状角柱 H53×W24.5×D20全高81 文字塔
正面は、バン(梵字)青面金剛塔 台座に薄く三猿
右側は、講中に続いて5名の氏名
左側は、文政十二己丑(1829)星(年)
十二月吉日 国分村 講中に続いて5名の氏名

#18;円頭角柱 H65×W24×D21全高95 文字庚申塔
正面は、庚申塔 台座に三猿
右側は、明治廿二丑年二月二十三日 当村堂ノ下講中7名の氏名
現国分寺参道入口の大欅の根元
歩数は18,018歩でした。
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